[SS]もう少しだけ

どうせまたすぐにからかうつもりでしょ。
もう知らない、どうせアタシなんて──そう言って早足で歩くときっと凪は呆れながらに折れてくれる。
ぶつぶつ言いながら、少し照れくさそうに。言い過ぎたって言ってくる。
いつも喧嘩の後の流れはそんなやりとりが繰り返されていた。

こんなどうでもいいやり取りが好きだった。
つまらないことでムキになって言い合えるのが好きだった。
なんだかんだ言って、結局またいつも通りに会えることが嬉しかった。
この日常が楽しくて、でも照れくさくて、ついいつも意地を張ってしまうのだが。

なのにその日はいつもと違った。
思い出しても顔から火が出そうになる。あれは一体何だったのか。
「可愛くないな」そう言ってくる場面であるはずが──突然に背中越しに、その両腕に身体を包まれ身動きが取れなくなる。
「え」
思わず声が漏れる。ぎゅ、とその包む腕の力がほんの少し強まった。

そこからの言葉は、あまり覚えていない。
混乱していたはずなのに、なぜかはっきりと脳裏に焼き付いている。
意外なまでに力強く温かい腕。
そしてどちらのものともわからない心臓の音。
振り返ろうとした間近に見慣れたはずの青年の横顔。
断片的なそれらが、何度も何度も、頭の中で繰り返される。

自分も自分でおかしかった。
馬鹿、スケベ! そういって突き飛ばしているはずの場面だ。
なのに何故そう思ってしまったのか。
あとほんの一瞬だけ、もう一瞬だけ、もう少しだけ──。
やっと解放されるまで、何故されるがままに抱きしめられていたのか。

「もう、次どんな顔して会えばいいのよ」

そこには手鏡を前に百面相をする少女の姿があった。
頬の熱はまだ冷めないまま。

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