[SS]静かな湖畔の森の影から
ベルドラの外れにある静かな森。
危険な魔物が潜むわけでもない、ただ人知れず存在する穏やかな森だった。
クレイルは一人、五年ぶりにその森へ向かった。リヴァイレッドから戻ってきた時に、一番に向かおうと決めていた場所だ。
森へと足を踏み入れてから数分歩いたら、広い空間へとたどり着くはずだ。道は覚えている。忘れていない。途中で邪魔をするように倒れている一本の木もそのままだ。クレイルはその木を軽く跨いで難なく通過する。ここの木はこんなに小さかっただろうか、そう思いながら進んだ。
いつの頃からかこの森で一緒に遊ぶようになっていた少女。
大人たちは険しい顔で「あんな家の使用人の娘などに近寄るな」と言っていたが、幼いクレイルはそんな言葉に聞く耳など持たない。
高貴な家柄、厳しい両親に厳しい教育係に睨まれる毎日。友人もいない。弟からは目の敵にされる。そんな環境の中にいたクレイルにとって、ただ一人優しい笑顔を見せてくれた、淡い橙の長い緩やかな髪を揺らし、桃色の瞳を細めよく笑っていた少女。
幼い頃より口数も少なく感情も乏しいクレイルだったが、彼女の前では不思議と自然に笑えた。
その頃といえば、家の事情など何も知らない暢気な子供だった。唯一の安らぎである存在が、己の家の敵対する家の使用人の娘だったという事も理解していなかった。楽しい時間はいつまでも続くと当たり前のように信じていた日々だった。例え日が暮れたとしても、また明日あの笑顔に会える。嫌なことがあっても耐えて過ごせば、すぐにあの優しい笑顔に会える時間がやってくる。
だから五年前の今日が来るとは思ってもなかったのだ。
父親から、ここベルドラを離れ遠くリヴァイレッドへの進学を命じられたその日。それを伝えた時の、少女の驚いた目。クレイルの記憶の中にひとつ強く焼きついた寂しそうな目。
すぐにまた会えるというには五年は長すぎた。
この道のように長い、永遠に続くのかと錯覚する程に長い五年だった。
しかしその間も彼女の笑顔はいつでも思い出せた。初めて知った、唯一知っていた優しい笑顔だからだ。気が付けばその姿をいつも探していた。いるはずもないのに探していた。
今もそうだ。五年も経って、会えるわけもないのにこんな森までやってきた。あの笑顔に会いたいからだ。声を聞きたかったからだ。ただ一言、おかえりなさいと微笑んでほしくてここまでやってきたのだ。
五年経って、もう何も知らない無邪気な子供でもない。色んな事を知り、色んな壁が見えるようになった。もう昔のようには会えるわけもない。しかし理解とは裏腹に感情は彼女の笑顔を求めることを止めてくれない。そしてここ以外に何処へ行けばあの笑顔に会えるのかもわからなかった。
草をかき分け、迷う事無く辿り着いたそこには、生い茂る草の絨毯に透き通る大きな湖が広がっている。薄暗かった先ほどまでの道が嘘のような光。斜めに差し込んだ木漏れ日が、緩やかに揺れる水面にキラキラと反射している。
風の音と鳥の声が心地よい、静かで落ち着く空気は以前と何ら変わりない。ただひとつを除いては。
湖の畔に座る幼い少女が淡い橙の髪を揺らして振り向き、少し驚いた顔を見せ、桃色の瞳を細めて消えた。
会いたい気持ちが生んだ幻だった。
当たり前だ、いるはずがない。
あれから五年経った。五年も経った。
約束もしていない。来るはずもない。
時間が流れているのは自分だけじゃない。
色んな事が変わっているはずだ。
もはや自分の事など忘れてしまっているかも知れない。
この場所が変わらないから、あの頃のように会えると錯覚してしまっただけだ。
クレイルは一人、少女がいた畔に腰を下ろす。
湖をぼんやりと眺めていた。
こんな時でも思い出すのは優しい笑顔ばかりだった。孤独の中、ずっと心の励みにしていた、あの笑顔。
その時、遠くから草を踏む柔らかい足音が聞こえた──とうとう幻聴まで聞こえるようになったかと呆れそうになるが、その音はゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。どうやら現実のもののようだった。
足跡は後方、ほんの少し離れた所で止まった。
まさか、そんなはずがない。五年も経っているんだぞ。
約束もしていない。来るはずがない。
クレイルはゆっくりと振り返った。
木の陰に隠れて揺れる淡い橙の結い髪と、覗く驚いた桃色の瞳。
もう夢でも幻でも構わない。
ほんの少しの間の後、クレイルは少女の名を呼んだ。