[SS]少しずつ
芽吹の月のとある晴れの日、昼下がり。いつもの森で、いつもの人を待つ。
辺りは静寂に包まれ、少しずつ春の訪れを感じさせる暖かな日差しに風のそよぐ音が心地よく、思わずうとうとしてしまいそうだ。
遠くから誰かの軽い足取りの気配がした。葉を踏む音が徐々に近付いてくる。クレイルはそれにわざと気付かないふりをする。
少しして、近くの樹のすぐ後ろで気配は立ち止まる。
「クレイル?」
恐る恐る、丸く大きな瞳が覗く。
「カヤ」
身を起こし、ようやく訪れた待ち人にクレイルは名だけ呼ぶと、すぐ隣へと誘う。
カヤもそれに応え、弾むようにすぐ隣へと腰を下ろしてにこりと微笑む。
「あのね、クレイル」
つい先ほどまでの不安げな表情はどこへやら、カヤの表情は瞬く間に晴れた。
この森で過ごす時間は大抵、同僚のメイドの話だとか、買い物に出掛けた時の話、失敗した話といった他愛のない話ばかりだ。主にカヤが話し、クレイルが聞く。クレイルからすれば、カヤを楽しませられるような己の話題など皆無に等しいので、カヤが楽しそうに話しをするのを見ているだけで心地よい。幸せな時間といえる。
だが人目を忍んで会っている二人にとって、ここで過ごせる時間というのはあまりに僅かだ。
「それでね……」
いつまでも弾む鈴のような声を聞いていたいが、今日はそういうわけにもいかない。
カヤの言葉を遮るように、クレイルは突然、小さな包みを目の前に差し出す。
それを見てカヤは不思議そうに首を傾げる。
クレイルはカヤの手を取り、その細い手のひらに小さな包みを握らせた。
「わ、私、に……?」
と頬を染めながらいうのでクレイルは黙って頷く。
「ありがとうクレイル!」
クレイルは急に抱きつかれた事に若干驚いたが、カヤ本人も自分の咄嗟の行動に驚いたようで、小さく謝ってから離れ、俯きながら座り直す。何も謝る必要などないというのに。
「その、あ……開けても……?」
遠慮がちに訊ねる。クレイルはその問いにも黙って頷く。カヤは嬉しそうに、ゆっくりとその包みを丁寧に開いた。
中から現れたのは淡い桃色のリップスティックだ。上品に装飾されたそれは、それなりに多少値が張ったが、そんな事はクレイルにとっては問題にもならぬ事。
カヤはそれを手に取り、頬を染め、まるで宝石でも見るような眼差しで、そのリップとクレイルとを交互に見る。その様子から相当喜んでもらえたようで、その様子があまりにも愛らしくて、クレイルも思わず口元が綻ぶ。
「ずっとずっと、大事にするから」
カヤはそう言ってリップを強く握って満面の笑みを見せてくれた。
カヤは大事にすると言ったら本当に大事にしてくれる。
以前も、かなり子供の頃、あげた本人すらいつの事だか忘れていたような古いリボンを今も持っていると出して見せ、クレイルを驚かせた。
いつの、どこの、何だかわからん細い布切れですらこれなのだから、まさかこのリップは使われる事なくしまい込まれやしないだろうか?
それでは困る。
「つけてみせてほしい」
「今?」
「今」
そう告げるとカヤは驚いたようで、何やら躊躇っているようだった。
「なんだか、勿体ない……ような」
もじもじとした様子のカヤを見ていると、どうもクレイルの中の嗜虐心が刺激される。
ひらめいたクレイルはカヤの頬に強引に触れ、わざと挑発的に顎をくいと持ち上げる。びくりと身体を強ばらせたカヤがこちらを見上げつつ硬直する。
「なら俺が塗ってやろうか。めちゃくちゃになるかもしれんが」
意地悪げにそういってカヤの手の中にあるリップスティックを奪おうとすると、はっと気を持ち直したカヤは顔を真っ赤にさせながら「じ、自分でする!」とそれを必死に守った。
少し照れくさそうにリップを塗る姿は愛らしく、仕草ひとつひとつを焼き付けておきたくなるが、
「あんまり見ないで」
とそっぽを向かれてしまった。クレイルは少し拗ねつつも暫し待つ。
「どうかな……?」
はにかんだカヤの細まった瞳と同じ、淡い桃色に染まった艶やかな唇。
クレイルが想像した通り、優しいカヤにぴったりだと言える。カヤは安心してまた微笑む。
「でも、こんなに高そうなもの、本当に貰っていいの……?」
未だに申し訳無さげにカヤが言う。
友人から、女性にリップスティックをプレゼントするという事には意味があると聞いた。
その意味をどうやらカヤは分かっていないらしい。だから、
「やるとは言ってない」
と言い放つ。きょとんとしたカヤの、風に揺れた髪を耳にかけてやると、
「どういうこと……?」
「少しずつ、返してもらう」
「え、え……?」
わけも分からず戸惑っているカヤの隙をついて、クレイルは先ほどとは対照的に、優しくその唇を引き寄せた。