[SS]諦めることを許さない
杞憂であればいい。ただの勘違いであればいい。
付きまとう違和感など、ただの思い過ごしであればいい。
この胸の高鳴りなど、不安な気持ちなど、無意味なことであればいい。
前向きな思考を無理矢理に作り、暗い未来を振り払ってはいたが……。
ぐらりと傾いた娘を支えた、その腕から伝わる残酷な通知。
……恐ろしく軽かったのだ。血の気が引くほどに。
懸念していたことが、現実として目の前に突きつけられている。
やはり、そうだったのか。
「リーネ様……」
人形のようにくたりと力の抜けきったリーネを抱きかかえた。どんなに前向きに考えようとしていても拭いきれなかった微かな可能性が、勢いを増してカークスの脳全体を支配する。
病──思っているよりもずっと事態は深刻なのかもしれない。両腕の重みとも言えない重みがそれを訴えていた。
長い長い廊下にゆっくりと静かな靴音が響く。
時折歩みを止め、胸元にあるその表情を窺う。青白く弱々しい顔。かつて戦場を勇ましく駆け巡り、恐れ戦かした黄金色の髪の指揮官の姿はそこにはない。
平静を装っても眉間にどうしても力が篭る。今、自分はどれほど苦い表情をしているのか。
リーネは侍医ではなく、わざわざ抜け穴を使い街の医者へ足を運んでいた。蝕む病と、ただ一人で戦っていたのだろうか。これほどひどくなるまでに。
一体、何故……。
カークスはゆっくりと足を進めた。かつてリーネらが解放軍と呼ばれていた頃、皆で戦場を駆け巡った。辛く苦しい時代が続いた。人々はリーネを、今この腕の中の金髪の娘に希望を見出し、守ると誓った。小さな身で人々の希望も憎悪も背負い、傷だらけになりながらも皆に光を与え、立ち向かい続けた勇ましき指揮官を、せめて支えていきたいと。そして、いつかその重い鎖を解き放ち、何てことない平穏を手にしてもらいたい。……指揮官は、まだ幼い少女だったのだ。
何があっても守る。守らなければ。騎士となった時に誓った。たとえこの身が朽ちようとも、刺し違えても、立ち憚る敵は躊躇いなく斬り、向けられた刃は怯むことなく受け止めようと。それが騎士の務め──いや、騎士と女王という立場を理由に、自分を幾度となく暗闇から救ってくれたこの娘を純粋に守りたかっただけかもしれない。
なのに、今目の前にいる敵は、カークスの手の届くところにはいない。
何が守るだ。何が騎士だ。この敵を相手に、薙ぎ払うことも、引き受けることも出来ないではないか。
この長い廊下を渡る途中、少しでも負荷をかけないように、誰とも遭わないようにと念じながら平生の表情を作る。もはや、それだけしか。
リーネの部屋へ着くと、扉は少し開かれていた。隙間から白く柔らかな毛並みが覗く。リーネが城で飼っている猫だ。頭を捻り、肥えた身体で扉をこじ開け、カークスの足をするりと抜けていった。カークスは悠々と歩く後姿に心の中で感謝を述べ、何の気配のない室内へ「失礼します」と足を踏み入た。ベッドまで歩み寄り、リーネをゆっくりと、細心の注意をはらいながら横たえる。丁寧に毛布をかけ、その苦しそうな表情を暫く見つめるが、それで変わることなど何もない。
カークスは廊下へ戻り、静かに扉を閉じる。扉の音とため息が混ざる。
苦しみを引き受けてやれるのなら、どれほどいいか。
これからどうするべきなのか。自分がしてやれることなど、何一つとしてないのか。
瞳を閉じて思案するも、ここ暫くの、青白くそれでいて尚、何てことないふりを続けようとするリーネの顔が離れない。
黙って見ていろというのか。
弱って絶望していく姿を、ただ見ていろというのか。
廊下の窓から覗く空を睨みつけた。心とは裏腹に、腹立たしいほどに美しい茜色のグラデーションが広がっている。あの時と同じ、忘れもしない澄んだ色だった。
──数年前のその出来事は、ある厳しい戦の最中。その事態はまさに絶望というほかなかった。
身動きを封じられ絶体絶命の危機に陥ったリーネと、今まさに刃を振り落とさんばかりの敵兵。カークスは、そこへ咄嗟に身体を割り込み、リーネを救う事と引き換えに致命傷を負った事があった。
それだけならまだ良かった。奈落へ突き落とすとばかりに近づく敵の増援兵の多数の足音。
自由に動けるのはリーネのみ。戦うにしても一対多を強いられ、さらに傍には瀕死のカークスがいる。圧倒的不利であり無事で済むとは到底思えない。敵兵の目的はリーネであり、やり過ごすことなど不可能であり、かといってリーネの体格ではカークスを抱えて逃げ切るのは難しい。彼女一人ならば、恐らくは逃げ切れる。むしろ、その道しか残されていないように思えた。
カークスの白い騎士服がみるみると赤茶色に染まる。カークスは、自分はここで死ぬのだろうと感じた。無念ではある。あるが──それでも、リーネを救うことが出来た。それでよかった。満足だった。悔いなど何一つないといえば嘘になるが、失うものなど既になかったし、こんなちっぽけな自分でも守るべき者を守ることが出来た。それだけで十分だった。騎士の死に方としては、最高のものではないか。
それに正直な所、もうこれ以上辛い思いなどしたくはなかった。沢山の者を殺し、沢山の仲間が殺され、余りにも多くのものを失い、失うところを目の当たりにし、何度も何度もそれを繰り返し、何のために戦っているのかもよくわからなくなっていた。
苦しいことばかりだった。もういい、もう、このまま楽に……。
それでも、リーネは諦めることを許さなかった。
どんな状況でも諦めることなく立ち向かっていった。その全てに打ち勝ったわけではない。だけど立ち向かい続け、絶望を薙ぎ払い、やがて切り開いていった。さまざまな想いを一身に受けながらも、ひたすら前を向いて。剣技ではない、それこそが彼女の本当の強さで、皆が、自分が惹かれる最たる理由で──。
カークスが再び目覚めた時は自陣営のテントの中だった。
何がなんだか分からなかった。夢のような錯覚も、丁寧に手当てされた胸の傷の痛みにより現実を実感する。生きている……?
自分の目覚めに喜び、涙してくれる仲間の優しさに感激した。
口にしたスープの美味しさに感激した。
隙間から覗く茜色の空が胸に焼きついた。熱いものがこみ上げてくる。
知らせを聞きつけ慌てて飛び込んできたリーネの姿を捉えた時には、堪えきれずにとうとう涙が溢れてしまった。
何気ないものすべてが愛しく見えた。
数刻前に向けられた絶望を含んだ少女の青い瞳が蘇る。絶望のあの時代にこそ見ることのなかった、光の灯らない瞳。
それがどれほど厳しい試練であっても――どうか諦めないで。皆で共に戦ってきたではありませんか。
どんな相手でも、皆で戦っていくのではないのですか。
あれほど自暴的だった私に諦めないことを教えてくれたのは、他ならぬあなたなのに。
祈るように、固く瞳を閉じた。
リーネの、かつての力強い眼差しを懸命にイメージして。
もう一度、何度でも。
関連:The Oath(@ひさきりず様)