[SS]月明かりの下で

長い廊下を一人歩く。その軽くも重い靴音はフィアの気持ちを代弁しているかのようだった。

つい今し方、国王である父から「例の件に関しての今現在のフィアの心を聞きたい」と訪ねられたところだったからだ。
例の件──竜側の王との婚礼話──に対しフィアは少し俯きにわかに暗い影を見せたが、父と母の自分に対する気遣いの念を含む表情を見たすぐ様に、面を上げ微笑みながら答えた。
「勿論、好意的に受け止めておりますわ。わたくしの存在が、人と竜との掛け橋になれるのならば、これほど光栄なことは御座いません」
そう言ってドレスの裾を持ち上げ会釈した後、もう一度微笑んだ。
「わたくしは幸せです。だからご心配なく」
この言葉を発した時、愛する両親はどんな気持ちで自分の姿を見ていただろうか。
何故だか恐くて二人の顔をあまり見ることも出来ずに王の間を後にしたのだった。

磨かれた廊下を進むと煌びやかな装飾の施された自室の扉が近づく。
ほんの僅かな距離なのに、妙に遠く感じるのは先ほど自らが発した言葉に何か後ろめたさがあるからだろうか。
あの言葉は嘘ではない。人と竜との掛け橋になれるのならば。嘘ではないのだが、後ろめたさを否定することも出来ない。その確たる理由がフィアにはあった。誰にも言えない、秘めたる理由が。
「フィア」
真後ろから不意に呼びかけられ、フィアはびくりする。こんなに近づかれていたのに気付けないほど耽ってしまっていたのか。ゆっくりと振り向くとそこには鏡に映したかのような自分と同じ銀色の髪と藤色の瞳があった。
「フィオお兄様……」
フィオの表情もフィアに負けじとしかめている。違う点といえば、しっかりと目を捉えて離さない力強さが備わっているか否か。フィアは兄のその空気にややたじろぐも、なんともないように振舞おうと懸命に顔を作る。
「……どうかいたしました? お兄様」
「さっきの言葉は本当なのか? 本当に……」
そして少しの間。やや躊躇いながらといった様子でフィオは問う。
「本当に、竜王のもとへ嫁ぐつもりなのか?」
フィアの笑顔も無視したその問いに、どきりと胸が鳴る。
「あ、当たり前でしょう? だって」
だって、思わず言ってしまったがその続きが咄嗟には浮かばず、暫くの沈黙が訪れる。様々な単語が交錯するも、言葉の欠片はそのまま無残に消えていく。
こんな時、何をどう言えばいいのだろうか。
「俺はわからないよ……」
沈黙を破ったのはフィオだった。
「何故、いきなり竜王とお前が結婚しなくちゃならない? 竜側の考えていることがわからない」

何時の間にやら視線を落としていたフィアの目に映るのは兄の固く結ばれた拳だった。怒りなのか、悔しさなのか、それは小さく震えている。
「お兄様、それは……今は二つに分かれているヴァンセージュが一つに──」
「フィア、おまえ自身はどうなんだ? おまえの気持ちはどうなるんだ?」
必死に感情を抑えようとしている声だった。フィアの差し出そうとした手が固まる。行き場の失った細い指は自身のドレスの端を小さく絡ませるしかなかった。
「お兄様、わたくしは……」
フィオの目を見れないまま、少し呼吸を整えた後にゆっくりと口を開く。
「わたくしは、本当に何も出来ないだめな王女です。この国の暗闇の部分を見ようともせずにただ微笑んでいるだけ。お兄様のように武芸に秀でてもいなければ、お姉様のように聡明でもない。お父様やお母様の力にもなれなければ、国の為に何か出来るわけでもなかった。そんなわたくしにも出来る事が、ようやく与えられたのです」
たどたどしくも懸命に、フィアは伝えようとした。フィオはただただ、真っ直ぐフィアの目を見て聞いていた。
「断るという選択も与えてくださっているのです。無理はするなと仰ってくださっています。勿論、竜側へとこの身を捧げるのは、本当はすごく怖い……だけど、ここでまた自分可愛さに逃げることなど、国王の娘として生まれたわたくしに許されることではありません。それに」
これは兄への言葉なのか、それとも自分を言い聞かすための言葉か。ただ一つ分かっていることは、これほど献身的な、嘘偽りない気持ちであるはずの言葉を述べているにもかかわらず、目の前の兄の目が見ることが出来ない。
「わたくしは……」
後は誰かにこの件に関して心を探られようとした時のため、何度も何度も心で繰り返してきた言葉を言えばいい。
先ほど両親の前で言えた言葉を言えば終わりだ。
幸せです。
その言葉が後少しのところで出てこない。喉元で何かに遮られるかのように、出てこない。先ほどはあれほどさらりといえた事が、同じ時をして生まれた半身とも言える兄の前では何故言えないのか。
フィアは目の前の同じ色の瞳を覗うように見上げる。何故、俺に本心を言ってくれない? そんな風に言われているような、少し寂しそうな瞳だった。
「フィア。俺だってお前の幸せを見てとれるならこんなことは言わない。お前が思って居る以上に、そういうものは周囲に伝わるんだ」
「え……」
伝わっていたのだろうか。少なくともフィオにとっては、フィアが懸命に見せていた微笑みは、痛々しく映っていたのだろうか。
周囲に言っていた幸せだという言葉はどのように響いていたのか。先ほどの両親の顔はどうだったか──思い出せない。
「上辺だけの幸せな図を作っても、本当の平和は得られないと俺は思う。それに相手にも失礼だ。自分の気持ちも、もっと大事にして欲しい。そのために時間を頂いているのだろう?」
フィオの声は厳しいようで、とても柔らかいものだった。
幼い頃からフィアがくだらない事で泣いては優しく諭してくれていた、最も安心する声。
「はい……」
「それだけだ」
そう言うとフィオは先ほどフィアが父にしたように微笑み、踵を返し力強い足音を響かせながら去っていく。
フィアはその後姿をただ見つめるばかりだった。

(自分の、わたくしの気持ち──)
後ろ手に自室の扉を閉じる。その控えめな音も妙に大きく感じる静寂がそこにはあった。
「わたくしの存在が……人と竜との掛け橋になれるのならば、これほど光栄なことはないのに……」
頼りない足取りでベッドへと近寄り、空気でも抜けたかのように力なく倒れこむ。
自らの言葉を確認した途端に涙があふれ、みるみると視界がぼやけてくる。

そう。最初はそうだった。偽りなくそうだったのだ。
確かに先入観からの怯えもあるが、竜族との共存に憧れ、真の平和のために貢献出来る。その重大な掛け橋の役目を任されたのだ。
人間を理解しようとし、両種族の共存を恐れずに提示してきた、公平で平和的な思想を持つ現竜王。
フィアが彼をどれほど恐れていても、そして例え自分が周囲の竜族に忌み嫌われようと、恐らく竜王は自分を大切にしてくれるだろう。
そして自分もそんな彼を、彼らをきっと愛せるだろう。不安も大きいがそこに確かな希望があったのだ。
あの人に、出会わなければ。

大きな窓から満天の星と輝く月が覗く。涙越しからでもわかる、はっきりとした輪郭の美しい月。
ベットから身を起こし、導かれるようにその空を見上げる。そっと窓を開くと、やわらかな夜風が熱を帯びた頬を優しくなでた。
嬉しいことがあった時、楽しいことがあった時、そして美しい光景を目にした時。そんな時はいつも決まった顔が浮かぶ。

竜王からの使者、ライカ。

あの日の中庭で、気遣いから差し伸べられたその手をとらなければ、こんな気持ちなど生まれなかったのだろうか。
向けられた微笑みを逸らしていれば、投げられた優しい言葉を拒んでいれば、想うだけで胸の高鳴るようなこんな気持ちは生まれなかったかもしれない。そうすれば、何も迷うこともなかったはずだ。
あの人に会うことは許されないこと。こんな想いを抱くのは許されないこと。だってわたくしはこの国の王女だから。
あの人と共にこれからの道を歩むことは叶わぬ願い。その現実に涙することさえも間違いなのだ。
なのに、やはり自分は莫迦だ。許されぬことなのに、こんなにも──
「会いたい……」
「姫」
耳に届いたその音を、フィアは幻聴かと疑った。想いが引き起こした甘い夢の響きだと。
だが窓の外を見下ろすと、そこには確かにたった今願ったその者の姿があった。
「……ライカ様?」
どうしてここに? どうして、会いたいと願ったその時に現れるのか。
これは月が見せてくれた幻覚か、それとも奇跡か。
フィアはその淡い笑顔を一目見た途端、先ほどまでの憂鬱が隅に追いやられ、ただ傍にという気持ちだけで部屋を駆け出した。

本当に、わたくしは莫迦ね。
叶わぬ願いでも、ただ、今、このひとときだけでも傍に。
一秒でも早くあの人の元へ、一秒でも長く傍にいれるように。
願いながら、涙を拭いながら、息を切らして走った。


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