[SS]触れたくて

期待しては、駄目。
今こうして生きて、暮らしているだけでも奇跡に近いのに。
贅沢な想いは捨てなさい、レアノ。
これ以上望んでは駄目。これ以上欲しては駄目。
そう何度も繰り返して言い聞かすも、ふと油断してはあの日の出会いを思い出しては胸が高鳴り、気持ちは昂ぶり、求めてしまう。
ただ、触れたい──素直なその気持ちが過ぎってはレアノの心を支配し、そして懸命にそれを振り払った。

それはレアノにとっては思いもよらぬ再会だった。
主であるリッドウルの計らいにより、街の巨大な聖堂を訪れた時の事。その日は恒例行事である特別コンサートが行われる。
そのため訪れる人も多く、屋外では普段とは違い騒々しさが繰り広げられていた。
しかし聖堂の扉をくぐるや否や、ホールに立つ聖歌隊、奏でられる演奏、差し込むステンドグラスの光により一層の神聖さが漂う。心に重く響くゴスペル、光り輝く管楽器、そして漆黒に包まれたそれは、すっと自然にレアノの目に飛び込んだ。

──以前はずっと共に、当たり前のように触れて過ごしていた。
今この瞬間まで自分のことで精一杯で、ひとかけらも思い出しもしなかったのに──。

けれどたった一目で、たったの一瞬で、レアノの心のある一部分、知らず封印されていた想い出が色鮮やかに蘇る。
そして、こみ上げてくるものを抑えきれずに俯いた。

「どうだ、たまにはこういうのもいいだろう。なあシーク!」
満足げに笑うリッドウルの隣に立つ仏頂面は黙ったままだったが、レアノはその声に我にかえる。
「レアノはどうだ、感激で声も出でないのではないか?」
得意満面で俯くレアノを覗き込むリッドウルだったが、その表情にぎょっとする。
「……はい」
レアノは声を絞り出した。

久しく忘れていた感情を、容赦なく後押しする美しい旋律が聖堂全体に響く。
ああ、確かそんな音色だった。いつだって自分の感情を全て受け止めてくれていた。
レアノは溢れる涙を堪えるすべなく佇んでいた。まっすぐに奏者を見つめて。
「な、何故泣く!? そ、そんなにか……!? ええい、泣くな!」
「す……すみません……! な、何でも……」
困惑する当主と、僅かに動揺の色を見せるその従者。
「ただ……感激しただけなんです……」
ああ、自分はなんて人騒がせな侍女なんだろうか。
こぼれる涙もそのままに、視界がぼやけては拭い、それを数度繰り返した後にようやく落ち着きを取り戻すことができた。

その日から、レアノは何度もあの日のことを思い出す。何度も、何度も。触れたくて、触れたくてたまらない。
自分はなんて我侭で都合がいい女なのだろうか。この邸で役に立ちたい一心であるのに。
主へ恩返しをすべき立場でありながら、そんな贅沢が許されるはずがない。
身の程を知りなさい、レアノ。繰り返し繰り返し唱える。
侍女は侍女らしくただそれらしく仕えていればいい。わかってはいる。いるのだが。
それでも、もう二度と触れることはないのかと思うと、とてつもなく寂しい。

もう一度だけでも、触れることが出来たなら。

こんな気持ちが胸を支配している今の状況が憎らしかった。
いっそ忘れたままであったならよかったのに。あるいは嫌いになれれば。
しかしあの日思い出してしまった。メロディーが通過した瞬間、思い知らされた。
自然に動く指、身体はまだ完全に覚えていると。嫌いになることなど不可能なのだと。

誰もいない接客室のテーブルを拭く手を止める。
あの日見た、黒と白の優雅で力強い佇まい。響く軽やかで繊細な音色。
レアノは名も知らぬその奏者に嫉妬した。

ふと思いたち、傍らの椅子を丁寧に引き、そこへゆっくりと腰掛ける。
そして目の前のテーブルを見つめ、感じた。やはりそうだ。丁度いい高さだった。
レアノはテーブルに人差し指を一つ弾ませる。トンと微かな打音がなっただけだった。
しかしレアノの中には伸び弾むひとつの音色が聞こえた気がした。

大丈夫。まだ音を憶えている。この身に刻み込まれてる。
レアノはテーブルの縁に手をかけた。瞳を閉じるとそこには白と黒の鍵盤が広がる。

ゆっくりと指を這わせ弾ませる。それに合わせてテーブルを叩く複数の音が小刻みに踊る。
ただのテーブルを叩く軽い単調な音。だがレアノの内ではあの聖堂のピアノよりも見事に澄んで響く。
つま先を踏めば音は伸び、力を混めて叩けば音色は大きく応えてくれる。
広がるはかつて何日も練習を重ねた一番好きなあの曲。初めてピアノに魅せられた、心を揺さぶる切ないメロディライン。
音階の階段を駆け上るや否や急降下する怒涛の流れ──何度やっても音を外し、それを完璧に弾きこなせるようになった時はどれほど嬉しかったことか。母も妹も手を叩いて喜び、厳格だった父さえも頭をいやというほど撫でてくれた。
嬉しかった大事な思い出さえもこうして鮮明に蘇り──

刹那、扉の向こう回廊より響く足音により音色はただの打音に戻り、鍵盤はテーブルへ変身を遂げ、現実へと引き戻される。
ここは八大家・光の当主の屋敷の接客室。
足音は扉の前を通過し、また遠くへと離れていく。

(何をやっているの、私は……)

ふうとため息を一つ。
レアノは慌てて立ち上がり、まだ半分も終っていないテーブル拭きを再開した。


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